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再読書評「書きあぐねている人のための小説入門(保坂和志/中公文庫)」:エンタメとは違うけれど、読んで良かった

 
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職業物書きを目指すワナビ兼アニメオタクです。 企業に依存しない生き方を目指します。
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こんにちは、hineです。

先月投稿しました書評記事、書評「書きあぐねている人のための小説入門(保坂和志/中公文庫)」:エンタメを書きたい人は読むべきではないは本書の第一章のみを読んでの感想でありました。しかしさずがに第一章しか読まないでそのままにしておくことは気持ちが悪いので、続きを読了しましたのである種備忘録として残したいと思います。

そもそも何故第一章までしか読まなかったのかというと、前記事を読んでいただければわかるのですが、シンプルに言って「読んでいて腹が立った」からですね。

はっきり申し上げて、本書は僕の今までの「小説観」を根底のさらに奥底からひっくり返すものでした。
今まで僕が書こうとしてきたものを、「それは面白くない」「そんなものは小説ではない」と言われ「なんでそんなこと言われなきゃならないんだ!」と攻撃的になるしか、心の安定を保てなかったのです。(当時はコンサータの副作用によるイライラがピークな時期でもあったことも一因かな(言い訳))

いや、読了した今ではむしろ「筆者はあえて読者の腹を立てさせたのかもしれない」とすら思っています。これは後にわかることですが筆者は著作『カンバセイション・ピース』において会話部分を三割カットして、読者があんまりぼんやりしていると会話についていけなくなるようにしました。そういう、長い小説を読むための注意力を読者に喚起させるために、わざと読みづらい部分を書こうとするような筆者なのです。

今ではこの本に対する評価は前回と違い、かなり高いものとなっています。

ただし、「エンタメを書きたい人向けではないこと」を撤回するつもりはなく、前回で漠然と思った「僕は小説の書き方を解く本の中で、この本を最初に読んだことを後悔するだろう」という予想は、ある意味で的中した(後述します)ことを申し添えておきます。

そして、本書の正しくあるべきタイトルは「純文学小説とはなにか」である、ということを撤回し、「本当の小説を書きたい人のための小説入門」であると訂正します。前回記事を見ると自分のことながら酷いものだなと思いますが、当時の自分がそう思っていたことは事実なのでそのままに残しておきます。

小説に限らない「表現形式」を考えよう

小説とは「小説とはなにか」を考え続けることだと筆者は言います。しかしそれは四六時中小説のことを考え続けるというわけではない。筆者の場合では音楽(ジャズ)のことが例にあげられていたが、とにかく「他の表現形式」のこと、いいや表現に限らずあらゆる「思慮深いこと」(:サッカーのいい選手と普通の選手の本質的な違いはどこからくるのか、群れで飛ぶ鳥や虫が単独で飛ぶのよりずっと長い距離を移動できるのはどうしてかなど)を考え続けることは、そのまま小説を考えることに繋がるという。これは自分のなかで言葉にはしないまでも、経験的にわかっていたことなのですっと頭に入ってきた。頭に入ってきたというよりかは、抽象的にしか考えられなかった事柄を文章にしたためてくれたことが助かった、と言った方がいいかもしれない。

小説を書いていて書きあぐねてしまった時には、一度机から離れて他のことを考えたほうがいい。それは小説を書くことから逃げる行為ではなくて、むしろその延長である、ということを頭の中で分かっていると、結果的にずっと机に向かっているよりもずっと小説の完成に近づくと僕は思った。

運動の場を整えてあげる

筆者が作品にはそれ固有の運動があると言います。言い換えれば作品がそれ固有の運動を持った時にいま書かれているものが作品となると言っています。少し筆者と言っていることと齟齬があるかもしれませんが、僕が思ったのは「作者が登場人物を動かしたいように動かすんじゃなくて、登場人物たちが動きたいように動きそれを筆者が描写するほうがリアリティがあって面白い」のだということです。実際に筆者は、登場人物とその人間関係、そして物語の舞台を決めたら、テーマも決めずに書き始めるといいます。そんな簡単にできる話じゃない、と言われそうですが、ここで大事なのは「筆者は決して物語をコントロールできない」こと、「登場人物を自由に動かしてあげる」ことを予め了解して書いた小説は、今まで書いたそれらよりずっと活き活きしたものになるだろうと思うことです。

社会的形容詞を使わない

この社会的形容詞は筆者の造語で、伝わりやすさに重点が置かれた形容詞のこと(結婚披露宴での仲人による新郎新婦の紹介など)です。これは最大公約数的な情報しか入っていないために個性が浮かび上がらない、つまり小説的ではないと筆者は言います。

なるほどなぁ、確かに仲人の紹介で知る新郎新婦の関係よりも、その友人や肉親によって語られる『経験的で、身体的な』言葉による二人の紹介のほうが聞いていて面白いし興味深いですよね。

社会的形容詞を使わないって、どういうこと?それってかなり難しくない?って思われるでしょうけど、つまりは気取った小説然とした言葉ではなく、自分の等身大の言葉を使って書けばいいということだと解釈します。

会話をするときの動作を書け

常に気を付けをしているアナウンサーの話よりも、手振り身振りを使って話している大学教授の話のほうが耳に入ってきます。話をしながらの動作というのは、付随的で無意味な運動ではなく、話し手自身の気持ちをリードする作用があり、聞き手にも話の中身が自然に伝わる効果があると筆者は言います。このことは小説の会話文を書く上で大きなヒントとなることを筆者は発見しました。

会話の中身をどれだけ自然に書いてもそれだけではリアルな会話ではない。身振り手振りなど直接の中身から離れた部分をいかに小説の中に取り込むかが重要である。そのためには、AとBの会話なら、まずAがどんな風に喋っているかを具体的にイメージして、それ以上に聞いているBの表情や姿勢をイメージしなければならない。その上さらにAとBが会話している場についても想像力を働かせる必要がある。

これはすぐにでも今書いている小説に取り入れたい要素でした。全く持ってその通りの考えだと思います。

風景を書くとは、視覚を直列の形態に変換するということ

この言葉、ちょっとかっこいいフレーズだなと思って心のブックマークを入れておきました(無論、これは筆者の言う気取った小説らしくない表現なのであんまり多用すると筆者に怒られそうですが)。

三次元にある風景を文字に変換するということは、視覚という同時に広がるもの、つまり並列的なものを一本の流れに読まれる文字という直列の形態に変換するということであると筆者は言います。画家が風景を風景画に押し込めるような、強引な力がそこに働くために風景を書くことは難しいということです。

どうやって風景を書くかと言えば、むしろ自然に浮き出てきた風景(例えば「一本の木があります。どんな風景ですか?」という心理テストを受けている時の様な心象の動き)を書き、そこを舞台として小説を書けばいい。小説がそれまでの部分で創り出した流れ(運動)を変に自分のほうに引き寄せようとするのではなくて、その流れに従って積み上げていくものが小説である。だから、予定が変更になったり、事前になかったイメージが浮かび上がってきたら、それは小説としての運動が始まった証でもあるので、むしろ喜ぶべきだと筆者は言います。

本書を読んだことがない方でも、ここまでの記事を読んでいただければ、どういう筆者であるかをだいたい想像できているでしょうか?w
ここでいう「どういう筆者であるか」は決して非難的な意味ではなく、むしろここまで開き直れる姿勢を貫ける強かな姿勢は、尊敬に値します。

「せっかく書いたんだから」は捨て置かねばダメ

小説の流れが袋小路になって、どうしてもそれ以上書き進めることができなくなるときには、流れがおかしくなったところまで遡って、容赦なく捨て書き直さなければならないと筆者は言います。「せっかく書いたんだから」という気持ちを大事にしているやり方で、今まで成功してきたのか?ということです。加えて、小説家となって小説を書き続けるのだとしたら、100枚や200枚の原稿くらいいくらでも書けると思わなければならないということです。

うう、これは手痛い指摘だ・・・。処女作の書き直しを未だにしている僕には、心に刺さる部分です。だって処女作は今でも面白いと思うし、処女作だからこそ大事なんだもの・・・。

こういう「甘え」を捨てろ、という厳しいご意見。今の処女作の手直しが終わったら改めて考えたいと思います(おい)。

あとがき:この本は完成する

あとがきで、筆者は「この本はまだ未完成だ」と言います。この本は小説の書き方の本なのだから、この本を読んで刺激されて、読者がいままで考えてこなかったような小説への向かい方ができるようにならなければ、完成にはならないということです。

その上で、筆者はこう断言しています。

この本は完成する」と。

ミスドで独りカフェラテを飲みながら僕「(この人・・・かっけえ・・・。)」

小説を書こうと思っている人たちの本当の気持ちが、変な風に抑え込まれてしまっているのが現状(ある意味世に出ている「小説の書き方講座」のテクニックへの風刺)であり、そういう人たちのためにこの本を書いたと筆者は言っています。

まとめ:読んで後悔したけど読んで良かった

Σどないやねん、っていうまとめですけど、本当にこう思っています

冒頭で言った「僕は小説の書き方を解く本の中で、この本を最初に読んだことを後悔するだろう」という予想はある意味で当たっていたというのは、「この筆者の小説観に感銘してしまって、今書いているエンタメ的小説をどうしていいか分からない、つまり未練を捨てきれない」ということです。

筆者の言う小説を書く道はまさに見習いたい。けれど、今まで歩んできた道の続きも見てみたい。それはラノベなどのストーリーテラーな小説を書く道です。なぜなら、僕が小説家になりたいと思った作品、初めて読んだ小説涼宮ハルヒの憂鬱や、大好きなとある魔術の禁書目録はライトノベルだったからです。筆者の言う小説は実に素敵だと思うけれど、僕が書きたいのは、エンターテインメント的なライトノベルなのです。だからまだこっちの道を歩みたいと思います。

ただ、だとしてもこの本を読んで吸収できる部分はめちゃくちゃありました。この記事は、その吸収できる部分をまとめたものです。

最後にタイトルについて。前記事にて僕は本書の正しいタイトルは「純文学小説とはなにか」であると言いましたが、この筆者が言いたいのは全くそういうことではありませんでした。なにも純文学に限ったことではなく、むしろ純文学などというジャンル分けされた既存の物として考えるのではなく、小説とは何かを考え続けること、その手助けとなる本でした。

それでもやっぱり「書きあぐねている人のための小説入門」としておくと、僕のようなエンタメ書きたい!ラノベ書きたい!な読者が勘違いを起こしてしまうので、「本当の小説を書きたい人のための小説入門」のほうがいいかな。

あー、面白かった。

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